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人生のゲームに乗っかれるかどうかがわかれめだ

人生を楽しくみたされたものにできるかどうかは、人生のゲームに乗っかれるかどうかにかかっています。人間がゲームを愛しているのは、人生そのものがゲームだからではないかと思っています。

鉄で鋳物をつくるなら2,000度とか3,000度とかで熱しないとつくれないし、ケーキを焼くのに2,000度の窯で焼いたら、燃えつきてなくなってしまいます。どんなものにも一定のルールがあります。

サッカーで手を使えば反則、つまりルール違反です。何回注意されても手を使いつづけたら、どうなるか。退場させられて、その人はサッカーを楽しめなくなります。

じゃぁ、人生とはどんなゲームか。それは、自分がなにものであるのかをあてるゲームです。自分はいったいだれなのかを追求していくアドベンチャーゲームみたいなものだと思います。

体験をくりかえしながら、これは好き、これは嫌い、これは氣もちいい、これは氣もちよくないとかのなかから、自分がどこのだれかをあてるゲームです。

Aさんはサッカーがきらいだけど、わたしは好き。Aさんはパンが好きだけど、わたしは米が好き。そんなこんなのちっちゃなことでも、自分がなにものかを知るてがかりとなっていきます。

パンが好きという人がいるから、米が好きなことが実感できます。黒という色があるから、白を識別することができます。

パンがどれほど美味しいかを米好きの人につたえるのは、とてもすてきなことですが。相手がパン好きになってほしいとしても、人生ゲームとはなんら関係がないので苦しかったり闘いが起こったり退屈だったりします。サッカーで手を使おうとしたり、ケーキを2,000度で焼こうとしているのと似ています。

ルールから外れると、人生ゲームでもサッカーなどとおなじように、イエローカードやレッドカードが出されます。それを人は苦しみと感じます。

人は、自然法則というルールのもとにゲームを楽しんでいます。感謝すると氣もちがいいとか、ありのままを慈しむと氣もちがいいとか、いまの現実はすべて自分が望んだものだとか、人を変えることはできないとか、存在することにすでに重大な価値があるとか、あたえたものが帰ってくるとか。

自然法則という人生ゲームのルールは、何百年もまえから、いろんな人がことばとして、行動としてつたえてくれています。

どれがただしいルールかわかってから、そのルールにしたがおうというのも、ありです。が、それでは、代償が大きすぎるとわたしは思います。どうしてかというと、サッカーの場合、手でさわってはいけないことがただしいかどうかなど関係ないからです。あくまでも、手でさわってはいけないというのは、正義ではなく、ルールなんです。

あたえたものが帰ってくる、こころから感謝すると氣もちがいい、というのは正義ではなく、自然法則というルールです。

ただしいから従うとか、いいことだから実行するということではないんです。ただ、サッカーをするなら、ルールにそったプレイをしたほうが充実するし、ケーキを焼くならルールにそった温度の範囲で焼くほうがおいしいということです。

だから、あたえたものが帰ってくるとか、感謝すると氣もちがいいとかが、ほんとうにただしいかどうかをしろうとするのは、ケーキを焼くまえに、180度が適温であることをただしいかどうか分析しようとしているのとおなじです。それより、とっとと180度で焼いてみたほうが断然はやいです。

そのつぎに考えられるのが、実際に180度で焼いたケーキの見本を見せてもらうことですね。実際に感謝してまいにちを楽しくくらしている人の話を聞いたり、あたえることでゆたかになっている人と出会ったり、本を読んだりすることです。

でも、この、うまくいった例を知るというのは、それがただしいかどうかを知るためだと思っていると、うまくいきません。この本を書いた人は、たまたまあたえることでゆたかになれたかもしれないけど、自分はちがう......など。ただしさを判断しようとして疑いだしたらきりがありません。そこからルールを知ろうとすることが、ゆたかな人生にとってたいせつです。

あるいは、妥当だと感じることを実際に実践してみることです。「なるほど、あたえるというコンセプト、感謝するというコンセプトは氣もちよさそうだ」と妥当性をすこしでも感じるなら、ただしさを判断する前に実践して体験してみればいいのです。それでうまくいかなければ、そのルールがまちがっているということだから、忘れてしまえばいいんです。

ケーキを180度で焼くということが本に書いてあって、それが、「なるほど、妥当性があって無理がなさそうだ」と思えるなら、議論する前に焼いてみるでしょう。いちいち、著者に問いただして、「なぜ、1800度ではなく180度なんだ」と議論したりしないでしょう。それとおなじです。

あなたにとってすべてのできごとは、自分がなにものであるかを知るてがかりです。どんなに悲しいことも、よろこばしいことも、怒れることも、楽しいことも。その体験から「わたしはなにものであることがわかるだろう? なにを大切にしていることに氣づかされただろう?」すべては、そのことのために起こっています。

「ライバルとは、あなたの最大の味方だ」といわれるのは、このためです。つまり、ライバルとは、その存在によって、自分のことをより深く知ることのできる存在だということです。

最後に、たいせつなことはゲームの目的をわすれないこと。目的とはつまり「自分がなにものであるかを探求し続けること」です。それさえわすれなければ、どんな体験もあなたにとってすばらしい光となるでしょう。

そして、自然法則のルールとは、あなたをがんじがらめにからめとるものではありません。あなたの創造性を最大限に楽しむためのものです。ルールのないサッカーはもはやサッカーではないし、楽しむこともできなくなるでしょう。サッカーのルールとはサッカーを楽しむために存在すべきです。自然法則のルールも、あなたの人生を最大限に楽しむために存在しています。

2008年3月 4日 Kenji | | コメント(0) | トラックバック(0)






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